
で、今日の恵美子さんが立派な社会人として、結婚式を挙げられたのです」…と話されました。
私と主人は、花束贈呈の席上でとめどなく流れる大粒の涙に、頬を濡らしておりました。明さんのご両親も同じ気持ちだったと思います。
思えば長い道を恵美子とともに歩んでまいりました。肌寒い春の日でした。恵美子は三十四年三月、三人兄姉の末っ子として産声をあげました。
耳に障害のあることに気付いたのは一歳三ヵ月で、田植どきの忙しい時期でした。原因不明の高熱が何日も続き、よちよち歩きもできなくなり、母乳、ミルクも飲めなくなりました。
とりあえず義母に近くの医院に連れて行って頂き、私もその後で、どんな状態なのか聞きに行きました。恵美子はぐったりしていました。先生は、「この注射を打ってみましょう。これで助からなかったら、生命はないと諦めてください」と言われました。
恵美子は、注射を何本したか定かでありませんが、奇跡的に一命は取り止めました。片言で、「バーバー、ウマウマ」などと話しておりましたが、それ以後話もできなくなり、振り向こうともしません。主人と私は鶴岡市内の耳鼻科医院、病院に診察して頂きました。
白幡医院の先生が、新潟大学病院に紹介状を書いてくださり、診察を受けるように教えてくれました。そこで同じ障害の菅原由美さんを知りました。
農作業も一段落した八月の初め、主人と一緒に恵美子を連れ、大学病院へ一泊がてらに行きました。暑い暑い夏の車中でした。第一、第二診察室があり、どの程度、聴覚が残っているか
前ページ 目次へ 次ページ
|

|